2011年12月2日金曜日

社員も会社も不幸にする「生産性向上!」という呪文



最近特に思うのですが、日本人と、立場の弱い人は、会社と、無策な上司に使われすぎでしょと・・・。


社員も会社も不幸にする「生産性向上!」という呪文
本当の豊かさを実現する“健康職場モデル”



「生産性を上げろ!」

中間管理職の方なら、こんなゲキをトップや上司から飛ばされた経験が、一度はあるのではないだろうか。

しかも、最近のその“ゲキ”とセットで使われるのが、「早く結果を出せ!」というひと言。

効率を上げて、生産性を高め、早く結果を出せ!

そんな無理難題をトップから突きつけられて苦労している中間管理職の方に、最近やたらとお目にかかることが増えた。

恐らくその背景には、今年に入って難問が次々と持ち上がっていることがあるのだろう。東日本大震災、超円高、タイの大洪水、TPP(環太平洋経済連携協定)などなど。生産性とスピードをこれまで以上に意識せざるを得なくなった、というわけだ。

生産性を上げる――。

経営者であれば、生産性にこだわるのは当然のことだとは、分かってはいる。だが、「効率を上げろ!」「生産性を上げろ!」という言葉を聞くたびに、なぜかイヤな気分になる。うまく言えないけれど、「人」が「人」として扱われていないような気になってしまうのだ。

そもそも生産性を上げるって、どういうことなのか?

無駄な時間をなくして、時間効率を良くしろってこと? もっと集中力を高めて能率を上げろってこと?

あるいは、「それまで3人でやっていたことを1人でやれ!」「少ない人数で中国人や韓国人、インド人に負けないように死ぬ気で働け!」と激務を強いるってことなのか?

生産性を上げて、豊かになるのは会社? トップ? それとも働く人? 

最近やたらと言われている「生産性を上げる」という言葉の意味が、申し訳ないけど私にはよく分からない。いや、果たしてその意味を理解している人がどれほどいるのだろうか。

そこで今回は、「生産性」という言葉について、考えてみようと思う。

49歳の部長が漏らした職場の惨状

「恐らくどこの会社でも同じだと思うんですけど、2008年のリーマンショック以降、これ以上カットするところはないくらいカットしてきました。社員の人数だって3年前の半分になっていますし、残業だって制限していますから、人件費も残業代もこれ以上減らすのは到底無理。手をつけられるところは、とことん無駄を削減してきました」

「当然ながら、利益を増やすために営業力を高めて仕事だって増やしましたよ。でも、それで生産性が上がるかっていうとダメなんです。つまり、市場単価が下がっているんで、利益はカスカス。人数が減る一方で、以前よりも多くの仕事をこなしている。なのに、利益は増えない。忙しいから儲かっているように見えて、ちっとも数字に反映されない。今までやっていたペースよりも、短時間で多くの仕事をこなしているのに、生産性が全く向上しないんです」

「しかも、絶対に部下から訴えられるような働かせ方はさせちゃダメ、パワハラもダメ、心理的にプレッシャーをかけるのもダメ、のダメダメ尽くしです。部下の健康は完全に守りながら、生産性も上げろっていうわけです。部下が壊れる前に、私が壊れそうですよ。管理職はみな僕と同じようにストレスを感じているから、人間関係だって悪くなりますからね」


「リーダー会議なんて、最悪ですよ。数字で生産性が上がったことを示せない以上、他人の足を引っ張るしかなくなるわけです。『あそこの部署がもっと○×してくれれば、うちのチームも生産性が上がる』とか、『あそこがちゃんとやっていないから、そのツケがうちに回ってくる』とか、まるで小学生が責任のなすりつけ合いをしているみたいで……。人間ってあそこまで醜くなれるのかと、ホトホトいやになります。最近ね、日曜日の夕方になると胃が痛くなる。アハハ、これがサザエさん症候群ってやつですかね~」

こう話すのは、あるメーカーに勤める49歳の部長さんである。

それまで3人でやっていた仕事を、2人でやるようになれば、「生産性が上がった」ことにフツーはなる。それまで残業をしないと終わらなかった仕事を、残業をせずに終わらせられるようになれば、これも「生産性が上がった」ことにフツーはなるはずだ。

ところが、そうはならない時代になった。単価が下がったことで、インプットとアウトプットの数式が変わってしまったのだ。ところが、その時代の変化が少しも考慮されることなく、数字ばかりが求められる。

今や、何よりも数字が一番偉いのだ。

働けど働けど数字は伸びない――。そりゃ、人間関係だって悪くなるのも無理もない。

誰だって、自分が大切だから。「醜い」とか「汚い」とか言われようとも、人間には自己防衛本能があるのだから何でもやる。「時間的切迫」という人間を恐怖に陥らせる最悪のストレスの雨も加わっているのだから、なおさらである。

しかも、そういう“下劣な”(←あえて言ってしまいますが)行為に出る人ほど、上の人の扱いがうまかったりする。

「サザエさん症候群ですかね」とこの男性は苦笑していたが、ホントはとてつもないストレスを感じているのだろう。

実は経営責任を放棄しているトップたち

もし、私が彼の立場だったら、「病人が出ても構わないから、部下のケツをたたきまくって、働いて働いて働きまくって生産性を上げろ!」と言われた方がまだましじゃないかと、思ったりもする。

いやいや、もちろんそんな非人道的なことが許されるご時世ではない。ならば、「利益も出ない赤字の仕事を請け負って疲弊するくらいなら、顧客が減るのは覚悟で、単価を上げよう」と、量ではなく質にこだわる方針を示してくれれば、ストレスを感じるどころか、「よし!もっと頑張るぞ!」とやる気も出るだろう。

だが実際には、トップは「生産性を上げろ!」「早く結果を出せ!」とプレッシャーをかけ続けるだけで、社員を酷使する覚悟も、顧客が減ることの覚悟も示してはくれない。

おまけに、そういう覚悟を示さないトップほど、問題の原因を部下の能力不足に転嫁したりする。「生産性の向上につながるような仕事ができないのは、お前に能力がないってことじゃないか!」などと言って、どこまでも部下に「生産性向上はできるはず」と詰め寄るのだ。

う~む、そんなトップが求めるような、都合の良い“できるヤツ”が、この世にいかほどいるのだろうか? こんな時にだけ、「お前に任せた!」と裁量権を持たせられても、そりゃないでしょ。

恐らくは「生産性を上げろ!」とゲキを飛ばしているトップも、答えが見つかってはいないのだろうけど、厳しい見方をすれば、「生産性を上げろ!」「早く結果を出せ!」とは、一見すると経営者として当然のことを言っているようではあるが、トップが経営者としての責任を放棄しているだけ。ただただ「それは部長の仕事(課長の仕事)、よろしくね」と、プレッシャーをかけるだけの、完全なる思考停止状態だ。

ただし、「企業の生産性」と「働く人の健康」が相反する関係にあるか? というとそんなことはない。

米労働安全衛生研究所(NIOSH)では、「労働者の健康と満足感と、職場の生産性や業績には相互作用があり、互いに強化できる」として、「健康職場(healthy work organization)モデル」を提唱している。


働く人が心身ともに健康であり、仕事に満足して働けるような組織作りを目指せば、働く人たちは能力を発揮することができ、創造性が高まる。それがひいては生産性の向上につながり、結果的に組織の業績に好影響をもたらすことが期待される。

業績が良ければ、賃金や処遇にも反映され、彼らの労働意欲もますます高まり、はつらつと仕事をこなすことができる。つまり、「個人の健康を第一に考えることで、企業も健康になる」――。

これが「健康職場モデル」の考え方だ。まさしく、「人」を重視した働かせ方。数字は人を大切にすれば必ずやついてくる、という、数字の前に人を見よ、としたモデルなのだ。

健康職場モデルが提唱されるに至った背景には、「生産性を上げるためには労働者を酷使するしかない」という考え方が主流を占め、トップによる「生産性を上げろ!」という指針の下で多くの労働者がメンタルヘルスを損なっていた社会状況があった。

すなわち、数年前までは日本だけでなく欧米でも、「会社が生き残るには、従業員はがむしゃらに仕事してもらわないとしょせん無理な話」と考える経営者がほとんどだったのだ。

いまだに「生産性と労働者の健康は相反するもの」という考えから脱することができないトップたちの中には、「何で最近のヤツラは仕事が多くなって、ウツだの何だのってなるのかね。普通は仕事がたくさんあるとうれしいんじゃないのかね」とか、「最近のヤツらは、ホントひ弱だね」などと平気で言ったりする人がいる。

こういった、いわば“スーパーマン幻想”に取りつかれた人たちに考えを改めてもらうために、NIOSHが提唱したのが健康職場モデルだったのである。

「ん? ってことは、『生産性を上げろ!』とゲキを飛ばすのと同時に『パワハラも残業もダメ』と言うのは、理にかなっていることになるんじゃん」

いやいや、それは全く逆向き発想だ。優先順位が180度逆なのだ。

“本場”でもリストラ企業の業績は好転していない

「健康職場」とは、逆説的に言えば、職場に過度のストレッサーがなく、あるいは本質的に安全化が図られているために、ストレス解消法に熱心に取り組んだり、普段から細心の注意を払ったりする必要のない職場のこと。冒頭の男性のように、社員が「サザエさん症候群」を呈するようでは、その前提から全く外れていることになる。

同時に、生産性を上げるために人員削減(リストラ)を断行することも、健康職場の理念とは異なる。

米国で1980年代に人員を3%以上カットした大企業311社(平均は10%カット)について調査を行った結果、経営指標の改善した企業は皆無。逆に経営が悪化している企業が多かった(NIOSH調べ)。米経営者協会が行った調査でも、1989~94年の6年間にリストラを実施した企業のうち、3分の2は実施期間中に生産性の向上は見られなかったと報告されている。

つまり、リストラをすると人件費が下がるため、数字の上では生産性が向上したように見えるが、実際の生産性はアップするどころかダウンする。リストラが行われることで、従業員の不安感が高まり、モラールが下がる。リストラは職を失った人だけでなく、職場に残った人のメンタルヘルスをも傷つける。大切にしなくてはならないのは、見かけ上の数字ではなく、あくまでも“人”なのである。

では、どうすればいいのか?

それには、“人”をキャピタル(資本)と考えて投資することが必要だ。


投資は金銭的なものだけでなく、時間の投資も欠かせない。結果が出るまで、投資する。働く人が元気に働けるような「管理方式」「組織風土」「経営方針」の3つの柱を組織特性として示すことからスタートし、「うちの会社は、働く人のことを考えてくれているよな」と働く人たちが感じ、社員たちが力を存分に発揮できる会社作りに励む。働く人の力が最大限に発揮できれば、企業の生産性は向上する。そう考え、投資するしかないのである。

極論を言ってしまえば、能力のある人も能力のない人も、仕事ができる人もできない人も、そこで働く社員全員が、「自分を大切にしてくれている」と感じられるような組織を作ることができて初めて健康職場モデルが機能し、生産性が上がると考えられているのである。


「そんな夢物語みたいなこと、今のご時世で言っていられないでしょ」
恐らくこう批判する人も多いだろう。
あるいは、
「それこそ机上の空論。そんな余裕はどこにもないよ」
そう苦言を呈する人もいるかもしれない。
でも、「生産性を上げる」ことばかりに必死になった結果、何か良いことはあっただろうか?
職を失い、時間的プレッシャーが高まって疲れ果てた人たちを量産しただけではないだろうか。一部のスーパーマンたちだけがたくさん稼いで豊かになっただけのこと。
生産性を上げることだけに必死になり、数字とのにらめっこに躍起になったことで、果たして私たちの暮らしは豊かになったのだろうか? 
私にはちっともそうは思えないのである。

特に、土壇場になればなるほど、その会社、人の性格が出ますね。
私は今そういうのをまさに見て感じているように思います。






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